興教大師(1095〜1143)について
興教大師は300年前の偉大なる弘法大師に比べて、目立たぬ控えめなお人柄でしたが、弘法大師への思慕の念は極めて強く、高野山を復興するため精魂をかたむけました。
若い頃は仏道修行を勉学に励み、高野山に登られてからは、大伝法院を建立し、念願であった伝法大会を復興、40歳で金剛峯寺の座主職にまで昇りつめました。
この時期が興教大師にとって最盛期でしたが、一方不幸な出来事も続きました。身辺での争いが次第に激しくなり、座主職を退き、自坊の密厳院で無言行に入りました。この時、書き残されたのが、「密厳院発露懺悔文」です。煩悩に満ちた自分の心を懺悔し、更に他人の犯した罪までも代わって懺悔するという限りない慈悲の心を示されております。
晩年「一期大要秘密集」の書物の中で、身命を大切にする心構えを説かれましたが、根来に移られてから3年後49歳の波乱の生涯を閉じ密厳浄土に旅立たれました。
新義真言宗管長 総本山根來寺第44世座主 関根眞教