その3 根來寺の草創3(中興頼瑜僧正・ちゅうこうらいゆそうじょう)
覚鑁上人ご入滅(1143)後も、百年以上にわたって大伝法院は高野山上に存続しました。弟子たちも離山を経験したものの、いまだ高野山と根来の地で修行をつづけていたのです。その後、現在に至る「根來寺」という寺院の基礎を確立し、以後の発展に多大な貢献を果たしたのが頼瑜僧正です。今回はその頼瑜僧正について記してみたいと思います。
頼瑜僧正は鎌倉時代中期の嘉禄2年(1226)現在の岩出市波分(はぶ)、根來寺のすぐ近くでお生まれになりました。十四歳の頃に得度受戒され、その後、高野山・京都・奈良の諸寺を往来しながら修行勉学に励みました。
そして、弘安9年(1286)には、高野山大伝法院の学頭に就任されました。その頃、大伝法院は大湯屋の建設をめぐって、金剛峯寺方との激しい対立の渦中にありました。この為、頼瑜僧正は大伝法院方を率いる学頭として、弟子の僧徒すべてを高野山から現在の地に移す決意をされたのです。学頭に就任されて二年後、正応元年(1288)のご決断でした。
ここに覚鑁上人依頼の根本道場である大伝法院と、その弟子の僧徒すべてが根来の地に移されたことにより、新義真言宗根來寺という寺院が本格的に成立したのです。「根來寺」という名称は、元久2年(1205)にはすでにつかわれていたようですが、寺院としての本格的な成立と、それ以後、室町時代に至る学山「根來寺」の発展は、この頼瑜僧正のご決断がなければなかったと言ってもよいでしょう。
さらに、頼瑜僧正は事相・教相に関する著作を数多く残され、今日の新義真言宗の基盤を確立された功績は甚大であり、今なお中興頼瑜僧正と崇められ、そのお墓は根來寺奥の院の覚鑁上人御廟所のお膝元、先師墓の中央にお祀りされています。
その4 伽藍の整備1(大伝法院再興)
前回は頼瑜僧正(1226〜1304)についてお話いたしましたが、その当時はまだ、現在私たちが目にする根來寺の大塔、大伝法堂などは存在していませんでした。現在の円明寺(えんみょうじ)周辺を中心に、頼瑜僧正をはじめといする弟子たちが住む坊舎が散在していいたようです。そして、大伝法院の伽藍がどのようにして整備されていったのか、紐解いていきたいと思います。
真言宗の寺院には必ず本堂があり、本尊がお祀りされています。頼瑜僧正が大伝法院の寺籍を高野山から根来に移したとはいえ、その当時はさまざまの事情により、建物や仏堂をそのまま移転することができませんでした。そこで、新しい聖地としての根來寺に、まず新しい本尊像が必要とされたのは当然のことでした。
その5 伽藍の整備2(本尊三尊像)
根來寺の本尊は覚鑁上人が高野山大伝法院の本尊とされていた大日如来・金剛薩た・尊勝仏頂尊の三尊です。そしてこの特色ある組み合わせの三尊型式を本尊としてお祀りしている寺院は根來寺以外にはありません。しかし、覚鑁上人と鳥羽上皇の信仰を現在まで伝えている、この根來寺の本尊三尊像の独自性を知って参拝される方は意外と少なく、残念なことに思います。
嘉慶元年(1387)に金剛薩た像の造立が始められました。つづいて大日如来像の造立も進み、応永12年(1405)、ようやく大伝法堂の本尊三尊像の完成となりました。このときすでに良殿・聖憲をはじめとする大伝法堂再興を願い、尽力した学頭たちは世を去っていましたが、伽藍の整備は本尊の完成とともに勢いを増して、着々と推し進められたようです。
現在の三尊像が600年前に造立された像であること、そして覚鑁上人独自の本尊であることが像内部の記録からも確認され、平成7年(1995)国の重要文化財に指定されました。像の大きさはそれぞれ3.5メートル前後もある丈六像で、中央に金剛界大日如来、向かって右に金剛薩た、左に尊勝仏頂尊という配置です。この三尊のお姿を拝するとき、その圧倒的な威容と600年を超える信仰と伝統の深さと重みに思わず礼拝し、自然と手と手が合わさります。
みなさまも、根來寺にお参りされ、大伝法堂の本尊三尊像の特異性と偉大さを是非、目の当たりにして、歴史と信仰の重み広がりを感じてみませんか?
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