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新義真言宗 総本山 根來寺は大阪市内から約60分・関西空港から約30分和歌山県北部に位置し、桜・紅葉 車加持・ご祈祷、ご供養のお寺。

TEL. 0736-62-1144

〒649-6202 和歌山県岩出市根来2286

根來寺の歴史2HEADLINE

その1 根來寺の草創1(鳥羽上皇と覚鑁上人)
 根來寺の歴史は、高野山上に大治五年(1130)に鳥羽上皇の勅願寺として建立された伝法院に始まります。はじめは、一間四面の小さなお堂でしたが、二年後には大伝法院が建立され多くの貴族が参列して盛大な落慶法要が行われました。
 この伝法院建立の背景には、鳥羽上皇のお力がありました。上皇は、真言宗のなかでも特にカリスマ性を有し、仏法を興隆して鎮護国家を目指す理想をもとにした、覚鑁上人に深く帰依され、絶大な支援をしました。
 上皇の支援は物心両面にわたり、寄進された石手荘や大伝法院領とされた荘園の税を免税したり、覚鑁上人(かくばんしょうにん)の志す伝法会の復興にもお力添えをされました。

 高野山上にも、また現在の根來寺大伝法堂にも、尊勝仏頂尊(そんしょうぶっちょうそん)がお祀りされています。この尊勝仏頂尊は障り(さわり)を除き長寿延命をもたらす仏様で、鳥羽上皇も特別な信仰を寄せていたようです。覚鑁上人がつくったとされる『伝法院供養願文』には「上皇御祈の為」と記されており、御願成就を祈念していたことがうかがえます。
 やがて覚鑁上人は、「きりもみ不動」のお話に知られるように、高野山の金剛峯寺方衆徒との確執から高野山を降りられて、現在の根来の地で円明寺、神宮寺を建立しました。
 ここでも落慶法要には鳥羽上皇をお迎えし、二人の交友がますます深まりをみせました。

 残念なことに、覚鑁上人は根来に移られて10か月後にご入滅されていますが、鳥羽上皇の温かいお力添えがあってはじめて、覚鑁上人の想いがこもった、この根來寺の基礎が築かれたのです。
その2 根來寺の草創2(伝法院の建立)
 伝法会の復興を願った覚鑁上人によって高野山上に伝法院が建立され、現在につづく根來寺の歴史が始まります。今回は、覚鑁上人が建立された伝法院の歴史について紐解いてみたいと思います。
 伝法院は大治五年(1130)に建立されました。一間四面宝形造で丈六の尊勝仏頂像(そんしょうぶっちょうぞう)と両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず)が安置されていました。(『伝法院供養願文』)この建立の目的は毎年二季の伝法会を修するためでしたが、尊勝仏頂を祀り供養することにによって、覚鑁上人が鳥羽上皇の息災延命を祈ったであろうともいわれています。しかし、この最初の伝法院は、覚鑁上人の理想よりはいささか狭く、また尊像が足りませんでした。
 後に願いがかなって、拡張された大伝法院が長承元年(1132)に建立されます。三間四面でそれぞれ丈六の大日如来(だいにちにょらい)、金剛薩た(こんごうさった)、尊勝仏頂像を祀り、内壁・柱にはさまざまな尊像が描かれていたと伝えられています。大伝法院落慶法要の際には鳥羽上皇の行幸があり、仁和寺御皇覚法(がくほう)、前関白藤原忠実(ただざね)までもが参列しています。
 大伝法院はその後、金剛峯寺との争いにより仁治三年(1242)に焼失しますが、文永九年(1272)に再建され、根來寺中興の祖と仰がれる頼瑜(らいゆ)僧正が正応元年(1288)に現在の根來寺に移しました。天正の兵火(1585年、豊臣秀吉の根来攻め)こそは免れましたが、その後解体されて大阪に運ばれてしまい、現在の大伝法堂は文政9年(1826)に再建されたものです。
 覚鑁上人の願いにより復興された伝法会は、今もこの根來の大伝法堂において行われ、宗学を支える大切な法要として受け継がれています。

 
その3 根來寺の草創3(中興頼瑜僧正・ちゅうこうらいゆそうじょう)
 覚鑁上人ご入滅(1143)後も、百年以上にわたって大伝法院は高野山上に存続しました。弟子たちも離山を経験したものの、いまだ高野山と根来の地で修行をつづけていたのです。その後、現在に至る「根來寺」という寺院の基礎を確立し、以後の発展に多大な貢献を果たしたのが頼瑜僧正です。今回はその頼瑜僧正について記してみたいと思います。
 頼瑜僧正は鎌倉時代中期の嘉禄2年(1226)現在の岩出市波分(はぶ)、根來寺のすぐ近くでお生まれになりました。十四歳の頃に得度受戒され、その後、高野山・京都・奈良の諸寺を往来しながら修行勉学に励みました。
 そして、弘安9年(1286)には、高野山大伝法院の学頭に就任されました。その頃、大伝法院は大湯屋の建設をめぐって、金剛峯寺方との激しい対立の渦中にありました。この為、頼瑜僧正は大伝法院方を率いる学頭として、弟子の僧徒すべてを高野山から現在の地に移す決意をされたのです。学頭に就任さてれ二年後、正応元年(1288)のご決断でした。
 ここに覚鑁上人依頼の根本道場である大伝法院と、その弟子の僧徒すべてが根来の地に移されたことにより、新義真言宗根來寺という寺院が本格的に成立したのです。「根來寺」という名称は、元久2年(1205)にはすでにつかわれていたようですが、寺院としての本格的な成立と、それ以後、室町時代に至る学山「根來寺」の発展は、この頼瑜僧正のご決断がなければなかったと言ってもようでしょう。
 さらに、頼瑜僧正の事相・教相に関する著作を数多く残されれ、今日の新義真言宗の基盤を確立された功績は甚大であり、今なお中興頼瑜僧正と崇められ、そのお墓は根來寺奥の院の覚鑁上人御廟所のお膝元、先師墓の中央にお祀りされています。
その4 伽藍の整備1(大伝法院再興)
 前回は頼瑜僧正(1226〜1304)についてお話いたしましたが、その当時はまだ、現在私たちが目にする根來寺の大塔、大伝法堂などは存在していませんでした。現在の円明寺(えんみょうじ)周辺を中心に、頼瑜僧正をはじめといする弟子たちが住む坊舎が散在していいたようです。そして、大伝法院の伽藍がどのようにして整備されていったのか、紐解いていきたいと思います。
 真言宗の寺院には必ず本堂があり、本尊がお祀りされています。頼瑜僧正が大伝法院の寺籍を高野山から根来に移したとはいえ、その当時はさまざまの事情により、建物や仏堂をそのまま移転することができませんでした。そこで、新しい聖地としての根來寺に、まず新しい本尊像が必要とされたのは当然のことでした。しかも、その本尊は覚鑁上人が大伝法院